温故知新という言葉に従って、この会の設立当初のことから記そうと思う。私はこのカンファレンスが設立された翌年、1972年に放射線科に入局している。入局当時、助手(当時は研修医という概念は無かった)に対する教育は、先輩からの個人的な教育、医局での週一回のカンファレンス、それにこの会を含めた月例のカンファレンス二回が主たるものであった。この中で東京レントゲンカンファレンスが私に与えてくれた大きなものは、もちろん放射線診断に関する知識もあったが、夢であった。
1960年代に放射線科に入局して、関東で放射線診断学を志した者は、各大学でおそらく10年間で5名以下であったと推定される。このため、1970年代でも放射線診断医の層はきわめて薄かった。ただし濃かった。これはちょうどこのカンファレンスが設立されたころに、欧米で教育を受けた田坂、鈴木、大沢、藤井、蜂屋、多田、平松、石川(思いつくままに順不同)といった方々が、昇任または着任した時期に重なったことが大きな要因になっている。これらの方々の新鮮な熱意と、西岡清春先生のカリスマ的な情熱が合わさって、皆で前進するのだという熱気にあふれていた。しかも、放射線科医の層が薄いために、これらの先生がカンファレンスでディスカッサーとして出席し、名前も知らない病気の診断を次々と正解していく様は圧巻であった。自分もいつかこのような診断医になろうという、今から考えると大それた夢を頂けたことを、今でも感謝している。
1980年代までは、このカンファレンスは慶應義塾大学の臨床講堂の地下で行われていたので、会の設営のお世話を毎回行った。自分自身がアメリカ留学から帰った時期にあたり、正直に言って、今より情熱を持ってこの会に当たっていた気がする。今ではなくなりつつあるX線フイルムを、テレビモニターに写すシステムを導入したのもこのころである。このシステムは当時の主任教授であった熊倉先生に掛け合って、慶應の研究費でまかなったものであるが、おいてあった場所の関係で、医局では全く使用されず、このカンファレンス専用機となっていた。
1990年代からは、この会の世話人として、会の運営に参加するようになった。最初に記したような、夢を与えられる会を運営できているかは疑問だが、今年から齋田先生の肝いりで、司会者が当日即興で読影するようになった。これで良いところを研修医の皆さんに見せられればよいのだが、そうはうまくいかないのが現実である。先人は偉かったと変な感心で、自分自身を納得させている。
このように、この会は35年間時代に合わせて変遷しつつも、フイルムリーディングという基本を守って運営されてきた。今後ともこの方式が放射線科医の育成に役立つ限り、続けていきたいと祈念している。
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