小生が、岐阜大学から慶応大学へ赴任した1970年頃のカンファレンスは、提起された症例や資料について、各人が素直に自分の意見を述べる形であった。これを、症例や資料を提供する側も、これを受けて討論をする側もその場で決まるのではなく、予め、決定された症例提供側と読影する側が、相当な準備をして臨む形にしたのが、東京レントゲンカンファレンスであった。
当時の東京の診断のレベルは低く(勿論、全日本も低かった)、それでも聖路加の野辺地先生、東大の田坂教授、関東逓信の吉村先生、医科歯大の鈴木助教授達が、中心になって、月1回、症例検討会をやっていた。
東京レントゲンカンファレンスも、最初はこの形をとっていたが、これを現在の形の、解答者の機関、氏名を指定する形に改めたのは、東京レントゲンカンファレンスが始まって暫くたった時からです。確か1971年頃かと記憶しています。東大蜂屋講師達の新進気鋭の人達の意見を入れ、この形に改められました。(最近小生はこの会に参会していませんので、もっとよい形に変っているかも知れません。)
本会は、またたく間に大きくなり、半年もしない中に、東京から関東一辺に拡がり、毎会数十名を越す立派な会になりました。丁度この時期は、新設医大の創設の時期と一致し、放射線診断の分野も、昔になかった華やかな春を迎えておりました。メンバーは急速に増え、各教室が協力して、会を立派にするのに努力したので、みるみる間に立派な会に育って行きました。それは、当時の関東で、全盛時代を迎えていた白壁学派の消化器研究会と並び稱されるものとなったのである。
カンファレンスの事務局は、慶応におきましたが、今はない小西六写真工業(現:コニカミノルタヘルスケア)の星合部長には、本当にいろいろお世話になりました。カンファレンスの夜の時間を有効にするため、夕食の弁当を出すようにしたのも、
立派な会にする上で、力があったと思います。現在では、毎回100名を越えるようですが、その素地は最初からありました。
今回、300回記念を迎えるに当り、この会が今後益々生長し、発展するよう心から希望するものであります。
小生、先日、傘寿の会を多勢の人からお祝いしていただき、感謝していますが、300回も続くカンファレンスは、大変な記録で、「心からお目出とう」とお祝いを申しあげたい。
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