東京レントゲンカンファレンス300回記念寄稿文
東京レントゲンカンファレンスの思い出とこれからへの期待
聖マリアンナ医科大学名誉教授
藤井 正道
 私がFulbright Research Scholarとして、1962年University of Rocherter放射線科に留学し、中枢神経系に対するX線照射の影響についての研究をする傍ら、Post Doctral Research fellowとして、大学病院のCPC、CRC、Tumor Conferenceなど多くの院内Conferenceに出席させてもらった。
 そこで学んだ優れているところを1964年留学を終え歸国した時、母校(慈大)に導入しようと思い、先ず第一に画像診断について、IRD CodeをつけたOfficial Reportを書くことにし、臨床各科との会合を行い、その実現に努力した。
 その当時、消化管診断・胸部診断や整形外科や耳鼻科領域などの画像診断の主導権は臨床各科にあり、放射線科のReportは必ずしも officialなものとはなっておらず耳鼻科領域のReportなどは、一束にして紙屑箱に入れられていたこともあった。その様な状態の中で大学に在籍していることは空しく、父の開業を手伝うため大学を去ろうか又は再度アメリカに留学しようかと思い悩んだ。やがてアメリカでの留学先も決まり、いつ来るのかとの催促があったが、丁度その時、新設医大への赴任の話があり、後輩達からの要望もあり聖マ医大に赴任した。
 留学から歸って来た頃は、日医放関東部会でも野辺地・田坂・吉村・土屋先生方によりX線画像についての検討会が行われており、私もその会に入れさせて頂いたが、この会が部会内に広がることは残念ながらなかった。
 昭和45年頃から東京近郊には数校の新設医大が設立したが、昭和51年には近接している北里・東海・聖マの三校で夫々の放射線科の発展のために協力し合おうと、1ヶ月毎に順次廻り持ちでフィルムカンファレンスを行うことになり、三校は小田急沿線に位置しているので、小田急X線カンファレンスが生まれた。それにより放射線科間での交流が進み、その後の各教室の発展に大変役立った。しかし、いわばlocalな会合だったので、この会を関東エリアまで広げたいと思っていた。当時慶応大学放射線診断部には、関西から西岡教授が赴任しておられていた。
 西岡教授は極めてactiveな方で、関東エリアでの画像診断部分野のレベルアップの必要性を強く思われて、昭和46年に東京レントゲンカンファレンスを立ち上げておられた。我々にもその会への参加を呼びかけられたので、それに賛同し積極的に参加させて頂いた。私も一度Moderatorをしたことがあったが、会場は若手の放射線科医で一杯だった。Discusserを出した機関は夫々の機関への評価を考え正解を出すことを心掛けていたので、やや緊張した雰囲気だった。
 西岡教授は御自分のおられる教室員だけでなく、放射線診断学にたずさわっている若い医師はどこの所属の医師であるかに関係なく後輩の育成を目標に、時には、ぼうっとして座っている若者の足元を蹴ったりすることもあり、真剣に指導して下さった。そのおかげで回を重ねる度に参加者同士も次第に親密になりざっくばらんにhot discussionを行える雰囲気になり、関東地方会における画像診断分野のレベルアップに積極的に貢献された西岡教授の姿を今も思い出し敬意を表している。
 その後この様なカンファレンスが続くことにより、カンファレンスで育った若手の方々が、夫々に立派に成長され、参加者も次第に多くなり、今年11月で300回を迎えることになったことを心からうれしく思っている。
 今後とも、この会が益々発展し、質量共にレベルの高い後継者達が育ってゆくことを期待している。画像診断の適応とその選択が各臨床科より、全面的に放射線科に依頼され、それへの検査結果についてのhot discussionが臨床各科を交えて放射線科部内で行われ、全臨床科から、放射線診断医がDoctors Doctorとして認められ、画像診断分野に於ける確固たる地位を築き上げることを望み、300回記念のお祝いへの言葉とする。