東京レントゲンカンファレンス300回記念寄稿文
想いだすままに
駒澤大学医療健康科学部
蜂屋 順一
 東京レントゲンカンファレンス300回と聞かされますと、その歴史の重みに、足早に過ぎ去った若い時期の自分の活動期を思わず重ね合わせて、その間の充足の喜びや、忘れがたい苦渋が、錯綜して一種の感慨を覚えます。
 1970年頃、慶応大学に関西から来られた西岡清春先生が放射線診断部を創設されて間もないときに、この会の原型が誕生しました。西岡先生の発案で東京地区で何か新しい放射線診断関係の月例の勉強会を設立しようということになり、当時、東大放射線科の所属でまだ30代前半の若輩であった私も第一回の相談会から出席しました。西岡先生から具体的な運営方式について出席者に諮問がありましたが、あまり具体的な案はでませんでした。そこで生意気にもこの私が当時アメリカで盛んに行われていた種々のフィルムリーディングセッションを参考に次のような提案をしました。「首都圏の各大学、大規模病院の放射線科が回り持ちで出題者として症例を用意し、フィルムをあらかじめ定めたその月の解答当番施設に届け、会の当日に診断とその根拠を述べてもらう。そのあと出題者が正解を述べ、解説を行う」というもので、今では当たり前になった教育的読影会形式の一型ですが、当時はこのような試みは医学放射線学会、地方会、その他のいかなる関連集会をも含めて日本にはまだありませんでした。西岡先生はこの提案に即座に膝を打って「よし、それで行きましょう」と賛同されました。他の出席者からも異論はでませんでした。次に持ち上がったのは、多忙な診療業務に追われていたわれわれ放射線科医の、果たして誰が出題者から回答者へのフィルム運搬の仕事をうけもつか、という難問でした。当時はフィルム以外の表示媒体はなく、大量のフィルムを首都圏の各施設に毎月運ぶ作業は大変でした。そこで再び僭越にも私が「例えば、この際、フィルム販売会社の御協力を仰ぎ、各施設に常時出入りされている営業担当の方にその労を分担していただいてはどうでしょうか」と発言しましたところ、西岡先生は「なるほど、あとは全部私に任せてください」と即決されました。
 東京レントゲンカンファレンスはおよそこのような経緯でうまれ、当時の西岡先生の豪腕と緻密な実行力、またコニカミノルタヘルスケア株式会社(当時:小西六写真工業)の協力により実現し、見事な成功をおさめたのです。西岡先生が、この東京レントゲンカンファレンスの生みの親であり、関東地方の放射線診断に多大な刺激を与えられたことは、われわれの世代では周知のことですが、最近では知るひとも少ないのではないでしょうか。このたび300回記念をむかえるにあたり、全員でその御功績に改めて感謝と敬意の念を表したいと思います。
 会場は最初は慶応大学に設定され、毎月カンファレンス当日には、たとえば現在世話人代表をつとめておられる甲田英一先生など、当時の慶応大学放射線診断部の若手の先生方が事前に椅子をならべたり、終了後のいろいろな跡づけをされたり実に大変なご協力をして頂きました。その後、会場が新宿の野村ビルに移り、世話人制度も確立され、特定の大学への負担を避けて公正で適切な運営が行われ、継続を重ねて300回に至っているわけです。首都圏のどの方面からも交通の便のよいターミナルである新宿に会場を得たことは、会の発展と継続に大きく影響したと思います。これはコニカミノルタヘルスケア社の多大な支援があって可能になったことであり、同社にはあらためて感謝したいと思います。
 発足当時は単純X線撮影、フィルム断層撮影、消化管造影、IVP、血管撮影までが限度でCTもMRIもグレースケール超音波診断も存在せず、いまにして思えば画像診断という豊潤な果実の表皮から表皮下あたりを齧っていたような状況でしたが、さすがに医療施設の密集する関東地方の各所から提供される毎月の症例はいずれも選りすぐりの素晴しいものばかりで、良き刺激を得て放射線診断の実力を向上させたいというわれわれの願望にとって、まさに与えられるべきものが与えられたという実感でした。当時は現在のように良質で実用的な診断のテキストが自由に入手できる時代ではなく、東京レントゲンカンファレンスが果たした教育的効果は、いまでは想像もつかない大きなものでした。その後、周知のごとくわれわれ放射線診断医はCTをはじめとしてデジタル画像技術の開発による画期的で精密な診断手法を次々に手中に収め、各々について臨床応用の研鑽を重ね、今や大規模病院内では殆ど例外なく、画像診断の主力を担う重要な診療部門に発展するに至りしました。勿論まだ人材不足、仕事量の増加をはじめ不満や問題点も多く、放射線科の現状や将来についての悲観論、自虐論、指導層への批判論などを、時々目にします。しかし私はこのような傾向には与しません。東京レントゲンカンファレンスに限らず、この種の集会が盛会を続け、数こそ十分でなないにせよ、質の高い若い集団が存続する限り、私は将来に不安を覚えません。
 「レントゲンカンファレンス」という名称は今や現状に即したものではなく、もっと適切な名称に変更されるべきかもしれませんが、300回を迎えたこの会が、これからも放射線科の発展のために地道で重要な役割を担い続けることに変わりはないと信じています。